植物との対話

植物との対話日の出の撮影後、鼻毛の池に向かう林道を走り、目にとまる植物があると車を停め、撮影しました。その時に思い浮かんだのは「植物は優しい」という言葉でした。植物と対話をしていると「人間だけが自分の存在証明のために特別になろうと躍起になっていること」を痛感してしまうのです。その「自分が自分が」というエネルギーが痛い。それはもちろん私自身にも当てはまることです。エゴがある限り、それは仕方のないことなのでしょう。だからこそ、エゴのない植物に優しさを感じ、魅力を感じるのです。植物はそのままで美しい。私たちも何も存在証明をしなくても、そのままで美しいのではないでしょうか。

植物との対話自力の「はからい」を手放し、他力に身を委ねるためには、圧倒的な大地が必要だと越後に居ると感じます。親鸞聖人は京都から越後に流されたことで、大地性に触れ、そのなかで霊性を深めたという鈴木大拙氏の仮説は、私にとっては合点がいくのです。

植物との対話大拙氏は霊性を、感性、情性、意欲、知性という心的作用だけでは説明できないもので、真実性、純真さにおいて感受するはたらきだとし、美しいものが欲しい、清々しいものが好ましいという意欲を個己の上に動かさず、超個己の一人の上に帰せしめるはたらきが霊性であると言っています。

越後奥寂庵に居ると、自然とそのようなことに意識が向いていくのが不思議です。

植物との対話

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