映画「聖なる泉の少女」

今日、夜の個人セッションが急遽変更となったので、神保町にある岩波ホールに映画を観に行きました。「聖なる泉の少女」というジョージア(旧グルジア)の映画で、広告を観た瞬間、奥寂庵で私自身が感じていることと通じるものがあると直感した映画でした。実際、映画を観てみて、奥寂庵と東京オフィスを行き来して感じているそれぞれのリアリティを、映画は見事に現していました。

昨日までの短期セミナーでは「attunement(調律)」ということを探りましたが、自分の過去を振り返ってみると、20代ではミュージシャンとして音楽を通して人と調和することを意識し、今の仕事になってからは、身体心理療法やボディワークを通して、人と調子を合わせることをしてきたことから、ずっと非言語領域で他者に調子を合わせる(attune)ことをしてきたと言えます。

そして10年前に奥寂庵を構えてから、人と調子を合わせることを続けながらも、また別の領域と繋がる体験をよくしているのです。それは「自然との調律(attunement)」です。自然に包まれた環境で、自分の内面深くに入っていく時、その内面の動きに伴って周囲の自然が呼応する体験です。ある時は、内面の変化が生じた瞬間に急に突風が吹いて頬をさすっていきました。またある時は、鼻毛の池で目を閉じ、1人で太鼓を叩いていた5分間の間に風が強まり雷が轟き、叩き終わって目を開けた時には、叩き始める前と同じ穏やかな天候でした。

このように、奥寂庵での自然との交歓の体験から、この映画には深く共感できましたし、自然と主客非分離の意識状態が、合理的な近代的自我には必要であると感じてメッセージを発している人々が、他国にいることを嬉しく思いました。単にそう思っただけではなく、帰りの電車のなかでは、奥寂庵でもよく生じる第三の眼の辺り(前頭前野)が動いている感覚があり、身体も映画に同調しているようでした。

以前、梅原猛氏のご著書のなかで、天台本覚論の流れで「草木国土悉皆成仏」「山川草木悉皆成仏」の説明がありました。この時、動物や植物のみならず土や川も皆全て成仏できるというのは日本的だと感じましたが、それは観念的な理解に留まっていました。しかし、奥寂庵で、自然も人間に呼応することを体験すると、土にも川にも風にも空にも、活き活きしたいのちがあるように感じるので、土も川も風も空も全てが成仏できるという「草木国土悉皆成仏」も以前より腑に落ちるようになりました。

自然との交歓は「静寂」で「力強く」、「自然の一部であるという感覚」をもたらします。このような体験は、アニミズムやシャーマニズムという言葉でカテゴライズすることすら暴力的に感じるほど、繊細で神聖な瞬間です。

映画を観たことで、このような体験を深めていきたいと、以前にも増して強く思いました。

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